本書に収録した渋柿園随筆を引用する書物

渋柿園随筆は、南和男・綱淵謙錠・安藤優一郎・野口武彦・小山文雄によって、その著書に引用されている。
特に安藤優一郎は渋柿園からの引用が多い。


南和男『維新前夜の江戸庶民』(教育社歴史新書。昭和55年6月5日)


198ページに、渋柿園「三十五年前」からの引用がある。「三十五年前」は「五十年前」の初出形である。
その賊はみな武士の打装で、二人三人、多いのは五、六人も組んでいる。浅草蔵前の蔵宿、深川木場の材木屋などへ這入った者は七、八人以上もいたというので、何分これは普通の賊ではあるまい、この節諸方から入込んでいる浪士――後にいう憂国の志士等の所為か、或いは一、二大藩の家来かどうかという詮議で、或る時岡っ引の一人が彼の賊のあとを跟けて見ると、それが果して芝の薩州の上屋敷へはいったという。さてこそ、と言った(「卅五年前」明治三十六年一月『文芸倶楽部』)
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』11ページ4行からの記述と比較してみてください》






綱淵謙錠『幕末風塵録』(文春文庫。平成元年四月十日)


140ページに、渋柿園「三十五年前」からの引用がある。「三十五年前」は「五十年前」の初出形である。
〈流石に此辺は人気も騒立つて、人の眼もきよときよとしてゐる、荷物を片付け、土蔵の目塗などをして居る家もある。山の手から出た消防夫などは火掛りも出来ぬので、階子や纒を其処らに立てゝ、屯集して居る〉
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』12ページ最終行からの記述と比較してみてください》

140ページに、渋柿園「三十五年前」からの引用がある。
〈成るほど穿議で往来が厳ましいのか、其れでは詰らぬ。其れは兎もあれ、先づ勝たとあれば嬉しい、と悦び勇んで引返したが、其時に又た驚いたのは、再た以前の道を四谷へ来ると、いや太平至極なもので、此辺は戦争ではない歳暮の騒ぎ。大横町には市がある。富山(有名な呉服店)には客が一ぱい。紙鳶はあがる、鯨弓は聞える、羽子はつく、獅子舞の太鼓の音はする、絵双紙屋には人が多集て役者の似顔画を馬鹿な面して眺視てゐる。目と鼻の間の芝――火事は尚だどんどん燃てるんですよ――其の芝で今戦争があつて、兵燹で人家が焼れてゐる抔とは夢にも知らぬ、長崎の葬礼を江戸で聞くと云ふやうな調子で、往来は絡繹、人は皆近づく春の経営に余念なしと云ふ景色を見て、私も其ののん気さ加減には大に呆れた〉
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』13ページ9行からの記述と比較してみてください》


142ページに、渋柿園「三十五年前」からの引用がある。
〈其れに――甚だ汚穢いお話で恐れ入るが、便所です。もとより此の大勢に五ケ所や十ケ所の便所で間に合ふ理由のもので無いから、彼の階子のかゝるべき下方のところに、四斗樽を十四五も並べて、其れに人々が用を足すのだ。其れでも男子は尚だ然でもあらう。唯さへも物羞ましい婦人方が此の大勢の見てゐる面前で那麽ことが出来ますものか。(中略)中には清水港へ着くまで用便を耐へて、其の為めに船中でも卒倒し、上陸後も病気になつた人もある。実に、実に、牢屋どころで無い、目の前に見た活身ながらの地獄でしたな!〉
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』34ページ1行からの記述と比較してみてください》






安藤優一郎『幕臣たちの明治維新』(講談社現代新書。平成二十年三月二十日)

19・20ページに、次の引用がある。「明治元年」は、渋柿園の「三十五年前」を柴田宵曲が改題したもの。「三十五年前」は「五十年前」の初出形である。
藩士はこの三者の一を選んで身の処置をせねばならぬ次第となったが、その朝臣になると、禄高は従来取り来たりのまま――尤も後には減らされたそうだが、地面家作、その他残らず現在形のままで下されるという、これは至極割合の好い話であったが、何故かこれには応ずる者が寡なかった。まず旧臣中ひっからめて千分の一ぐらいな割合でしたかな。然もそれが千石以上の旗本の歴々に多かったのは事実です。これらも何か後来統計の参考になりましょう。そこで帰農商。これも帰農は寡なくて、あるのはやはり千石以上の知行取、即ち旧采地に引込むというのに多かった。中から下にかけて、即ち卅俵四十俵の連中には帰商もかなりありましたが、多かったのは無禄移住、どこまでも藩地へ御供というのでありました。(塚原渋柿「明治元年」柴田宵曲編『幕末の武家』青蛙房、一九六五年)
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』26ページ最終行からの記述と比較してみてください》

22ページに次の引用がある。
近ごろ或る一、二の小説などを見ますると、かの当時の事情とまるで反対した事が書いてある。例えばあのとき徳川氏の旗本家人で「朝臣」というになった人達を、何か非常に抜擢でもされた、栄典でも蒙ったように言ってある。その実、右は正反対で、あのとき朝臣になった者をば官軍の方でも余り珍重せぬ、ましてその世間からは非常に妙な悪感情を持ちまして、――つまりは「開化」ぬという話でしょうが、魚屋八百屋でもその屋敷には物も売らぬというような有様もあったのです。(「明治元年」)
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』9ページ10行からの記述と比較してみてください》


25ページに次の引用がある。
藩庁でも、朝臣の寡ないのを案外に思って、無禄連の多いのに頗る困って、また諭達を出した。石を喰うの砂を囓るのとて、それは口でのみいうべき事で、実際に行なえるものではない。彼地へ行って藩主へも御迷惑をかけ、銘々も難儀に陥るような事があっては、つまり双方のためにならぬから、はやく今のうちに方向をきめて、前途の生計にこまらぬようにしろ、と、こんな達示が二、三度も出ましたね。それでも、何でも御供をしたい!と。藩吏は甚だその処置に苦しんだらしかった。(「明治元年」)
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』27ページ10行からの記述と比較してみてください》


27ページに次の引用がある。
さあその帰農帰商の連中は、これから銘々商売というのを始めた。或いは酒屋、或いは米屋、古着屋、小間物屋、そのほか種々雑多な新店というが出来ましたが、そのうち一番多かったは汁粉屋、団子屋、炭薪屋に古道具屋でありました。この道具屋の店(我が居屋敷の長屋などを店にしつらえたもの)にある貨物は、多くはその家重代の器物で、膳椀から木具、簞笥長持、槍薙刀の類、それらに一様の紋が揃って、金の高蒔絵のうるわしく耀めくなどは、見事に哀れっぽく情けなしとでも謂うべきようでありましたが、またその価の廉いというものはおびただしい。惣桐の重ね簞笥の手摺れ一つつかぬのが金一分(今の廿五銭)、金蒔絵の紋散らしの夜具長持が同じく二朱(十二銭五厘)などという相場でしたが、これはそのわけで、当時いずれも品物は売るばかりで買う者がない。(「明治元年」)
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』28ページ1行からの記述と比較してみてください》


28・29ページには次の引用がある。
気の利いたのは桟留の袷に小倉の帯、新しい目倉縞の前垂で、昨日までの大髷を急に剃こかした月代の広いあたまを、白地の手拭でまぶかに吉原冠りというものにした体裁だけは頗る巧いが、その客応対の調子というものは実におかしい。やはり殿様旦那様の頭横柄でなければ、堅苦しい馬鹿丁寧で、いや聞くも気の毒のもの、哀れなものでした。(「明治元年」)
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』28ページ14行からの記述と比較してみてください》


30・31ページには次の引用がある。
牛込神楽坂辺で汁粉屋を始めた人は、日々勘定を〆上げて見ると、儲かるわ儲かるわ! 儲かって仕方がないほどにただ儲かる。どうしてこう商売というものは儲かるものかと主人も怪しんで、更に家内の会議を開いて、その理由を探求して見ると、儲かるわけ哉、団子でも汁粉でも雑煮でも、その肝腎の餅なり米の粉なりの代が入っていない。それはみな知行所から無銭で来ている物だからみな無代にして、薪炭も同じく無代にして、新たに買入れた小豆と砂糖の代だけで算盤を執ったのだから、それで儲かったと初めて知れて、さすがに主人公、これではならぬ、それにしても米の値段はいくらだろう、と皆に聞いたが、その席にいた者は誰一人、一升いくらだか知っている者はなかった(「明治元年」)
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』30ページ6行からの記述と比較してみてください》


36・37ページには次の引用がある。
階子の口まで行ってみると驚いた! 船中の混雑を防ぐためでもあろう、階子はとってある。わきの手すりに捉まって下方を見ると、臥棚もなければ何もない伽藍堂の板敷の上に、実に驚く、鮨を詰めたと謂おうか、目刺鰯を並べたと謂おうか、数限りも知れぬ人間の頭がずらりと列んで、誰も彼ももう寝ているのであるが、その枕としているのは何だというと他人の足で、自分の足もまた他の枕にされているのだ。(「明治元年」)
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』33ページ4行からの記述と比較してみてください》


38・39ページには次の引用がある。
非番の折りには、城内から一里半ほどの城が腰の海辺(今鉄道の通っている処)へ行って、青海苔を採って来て干して食う。或いは藤枝の山手の太閤平、盃松などの谷へ行っては蕨や犬薇などを摘んでは喰う。いやもう伯夷叔斉と嶋の俊寛を合併した景色でしたね。(中略)或る人の如きは真にその三食の資に尽きて、家内七人枕を並べて飢えて死に、また或る人は五日とか七日とか一粒の食をも得んで苦しんでいるのを、村の者が怪しんで、初めてその餓死にのぞんだと知り、或る者は逸早く麦粥を煮て食わせたところが、哀れむべしその男、ひもじいままに一度に数椀を尽くした、と看るうちに忽ち非常の苦悶を発してたちまちに息絶えたと聞きました。(「明治元年」)
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』37ページ後から5行からの記述、及び44ページ1行からの記述と比較してみてください》




安藤優一郞『幕末維新 消された歴史』(日本経済新聞社。平成二十一年十月二十一日)

205ページに次の引用がある。「明治元年」は、渋柿園の「三十五年前」を柴田宵曲が改題したもの。「三十五年前」は「五十年前」の初出形である。
彼等が当時の肚裏に在るものは「残念」という二字きりで、一王の化を擾るの、朝命に抗するのと、そんな料簡とては毫末もない。それでまた一方の主家からしては、かの「恭順」で、心得違いのないようにという厳重な沙汰は出る。官兵に敵対するのは予(慶喜公)が首に刃を擬つるも同様だ! などの畏怖しい書付も出る。けれどもただ右の「口惜しい!」で前後無茶苦茶に飛出したので。それで飛出して見る。朝廷からはもとより賊! 然して主家の眼からは不忠の臣! 謂わば勝ってもその命に背いた咎で、切腹といわれても一言もないに、負ければ当然縛り首! ちと落着いた料簡から考えると、何の趣意で、誰のために、この命がけの難渋な戦争をするのか、わからぬといえば実にこれほどわからぬ事はない。蓋し古今東西の歴史中に、こんな馬鹿げた戦争をした者が、あったかないか私は知らぬが、まあないでしょう。(塚原渋柿「明治元年」柴田宵曲編『幕末の武家』青蛙房、一九七五年)
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』25ページ後から6行からの記述と比較してみてください》

234ページに次の引用がある。
藩士はこの三者の一を選んで身の処置をせねばならぬ次第となったが、その朝臣になると、禄高は従来取り来たりのまま――尤も後には減らされたそうだが、地面家作、その他残らず現在形のままで下されるという、これは至極割合の好い話であったが、何故かこれには応ずる者が寡なかった。まず旧臣中ひっからめて千分の一ぐらいな割合でしたかな。然もそれが千石以上の旗本の歴々に多かったのは事実です。これらも何か後来統計の参考になりましょう。そこで帰農商。これも帰農は寡なくて、あるのはやはり千石以上の知行取、即ち旧采地に引込むというのに多かった。中から下にかけて、即ち卅俵四十俵の連中には帰商もかなりありましたが、多かったのは無禄移住、どこまでも藩地へ御供というのでありました。(「明治元年」)
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』26ページ最終行からの記述と比較してみてください》

235ページに次の引用がある。
近ごろ或る一、二の小説などを見ますると、かの当時の事情とまるで反対した事が書いてある。例えばあのとき徳川氏の旗本家人で「朝臣」というになった人達を、何か非常に抜擢でもされた、栄典でも蒙ったように言ってある。その実、右は正反対で、あのとき朝臣になった者をば官軍の方でも余り珍重せぬ、ましてその世間からは非常に妙な悪感情を持ちまして、――つまりは「開化」ぬという話でしょうが、魚屋八百屋でもその屋敷には物も売らぬというような有様もあったのです。そのまた当人も、その当時は人にも面会ず、偶々会えば赤面して、私どもも駿河へ御供もしたいですが、家内にこれこれの難義があるとか、親類にしかじかの苦情が出たとかで、まことに残念ながら、実に余儀なく……とか揉み手をして、あやまっていたくらいです。なかなか天朝の御直参になったからとて、威張り返って意気揚々の得々のどころの次第ではないのでした。
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』9ページ10行からの記述と比較してみてください》

237ページに次の引用がある。
藩庁でも、朝臣の寡ないのを案外に思って、無禄連の多いのに頗る困って、また諭達を出した。石を喰うの砂を囓るのとて、それは口でのみいうべき事で、実際に行なえるものではない。彼地へ行って藩主へも御迷惑をかけ、銘々も難儀に陥るような事があっては、つまり双方のためにならぬから、はやく今のうちに方向をきめて、前途の生計にこまらぬようにしろ、と、こんな達示が二、三度も出ましたね。それでも、何でも御供をしたい!と。藩吏は甚だその処置に苦しんだらしかった。(以上、「明治元年」)
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』27ページ10行からの記述と比較してみてください》

244ページに次の引用がある。
階子の口まで行ってみると驚いた! 船中の混雑を防ぐためでもあろう、階子はとってある。わきの手すりに捉まって下方を見ると、臥棚もなければ何もない伽藍堂の板敷の上に、実に驚く、鮨を詰めたと謂おうか、目刺鰯を並べたと謂おうか、数限りも知れぬ人間の頭がずらりと列んで、誰も彼ももう寝ているのであるが、その枕としているのは何だというと他人の足で、自分の足もまた他の枕にされているのだ。(「明治元年」)
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』33ページ4行からの記述と比較してみてください》




安藤優一郞『江戸っ子の意地』(集英社新書。平成二十三年五月二十二日)

17ページに次の引用がある。「明治元年」は、渋柿園の「三十五年前」を柴田宵曲が改題したもの。「三十五年前」は「五十年前」の初出形である。
正月になっても市中そのほか、表面は賑かで、礼者も来る、獅子も来る。鳥追も万歳も来る。明けましては御慶の年賀に元日から二日三日と過ぎたが、いずくんぞ知らむ、この時はこれ鳥羽伏見の大戦争で、徳川氏三百年の基礎の転覆にのぞめる際ならんとは!(塚原渋柿「明治元年」、『幕末の武家』所収)
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』15ページ2行からの記述と比較してみてください》


18ページに次の引用がある。
併し電信も鉄道もない当時、いかな早追いでも江戸大坂間昼夜二日半でなければ通ぜぬという時節であるから、これほどの大事件をも人は太平の屠蘇のゆめ、前将軍家の御供に立って京坂にいる人々の留守宅でも、いやな話――慶喜公の御辞職以来、上方のごたごたする話ばかりで困ります、宅でも早く帰って来てくれますればようございますが、ぐらいなもので、依然例年の雑煮も祝って、二日の初夢に気楽な宝船も買っていた。(同前)
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』15ページ7行からの記述と比較してみてください》


20ページに次の引用がある。
「いや、実に大変です。京都は大戦争、敵は薩長で、御味方大敗走! 上(慶喜公)にも昨夜蒸気船で御帰城です。内海の伯父なども討死したかどうか知れません。私は今それを知らせて来ました。あなたももう御覚悟なさい!」と真に血眼でいる。内海氏は当時京都の見廻組である。私もそれを聞いて実に仰天して、夢のように身が慄えた。(同前)
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』16ページ3行からの記述と比較してみてください》


22・23ページに次の引用がある。
この大敗というが実に残念で残念で居ても起っても堪らない。いずれ再度の盛り返しの戦争は是非ある事! その時こそは! と銃を磨き、弾薬の用意をして、刀に引肌まで掛けて、今日か明日かとその沙汰を待っていたところが、二月になると上様は上野に御謹慎! 戦争はない! という事にきまった。弔い戦をしないでどうするか、このまま敵に降参か、そんな事が出来るもんか、あるもんか! とただ無暗に逸るのは私どもぐらいの年恰好の者のいずれも口にする議論、剣術の師匠へ行っても、柔術の稽古場へ行っても皆そんな事ばかり。泣くのもあれば罵るのもある。そのうちに官軍は追いおい繰り込む。開城となる。もう仕様がないというので、或る者はその前後に脱走する、或る者はまた上野に拠る。(同前)
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』18ページ後から5行からの記述と比較してみてください》


72・73ページに次の引用がある。
私の知っている市ヶ谷本村蓮池の御先手与力の某はこの金貸を始めた。私、或るとき行って見ると、大勢の借り手が入替り立替り来る。それらがまたみな砂糖だ、酒だ、菓子だ、反物だというを持って来る。その家の細君が意気揚々と「塚原さん、商売はお金を貸すのに限りますよ。お金貸はいいものですよ。割のいい利を取って、手堅い証文を入れさした上に、このように毎日いろいろな品物を貰います。これを始めてから菓子に酒に鶏卵に鰹節に魚というを買ったことはございませんよ、ほんとにいい商法!」と説き誇る。その買わぬはよかったが、肝腎の貸した金は悉皆倒されて、この年の内に五六百両を空虚にして、後には夫婦乞食になったとか聞きました。(前掲「明治初年」)
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』29ページ後から2行からの記述と比較してみてください》


125ページに次の引用がある。
多くは見て来たような虚構ばかりついて、会津や脱走が勝ったと書かねば売れぬというので、その記事には奥羽軍は連戦連勝、今にも江戸へ繰り込むような事のみ書いていた。現に最も失笑すべきは、九月の廿四日に会津は既に落城している。それを何雑誌か名は忘れたが、その前後の発行のものに、会兵既に日光を占領して宇都宮に及び、その先鋒は近日長駆して草加越ヶ谷まで来るという、既にその先触もあった、というような事が載せてあったのを見ましたな。(前掲「明治初年」)
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』23ページ5行からの記述と比較してみてください》




安藤優一郞『「幕末維新」の不都合な真実』(PHP文庫。平成28年4月15日)

258ページに次の引用がある。「明治元年」は、渋柿園の「三十五年前」を柴田宵曲が改題したもの。「三十五年前」は「五十年前」の初出形である。
藩士はこの三者の一を選んで身の処置をせねばならぬ次第となったが、その朝臣になると、禄高は従来取り来たりのまま――尤も後には減らされたそうだが、地面家作、その他残らず現在形のままで下されるという、これは至極割合の好い話であったが、何故かこれには応ずる者が寡なかった。まず旧臣中ひっからめて千分の一ぐらいな割合でしたかな。然もそれが千石以上の旗本の歴々に多かったのは事実です。これらも何か後来統計の参考になりましょう。そこで帰農商。これも帰農は寡なくて、あるのはやはり千石以上の知行取、即ち旧采地に引込むというのに多かった。中から下にかけて、即ち卅俵四十俵の連中には帰商もかなりありましたが、多かったのは無禄移住、どこまでも藩地へ御供というのでありました(塚原渋柿「明治元年」『幕末の武家』所収、青蛙房)。
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』26ページ最終行からの記述と比較してみてください》

260ページに次の引用がある。引用元が明記されていないが、前の「明治元年」と思われる。
近ごろ或る一、二の小説などを見ますると、かの当時の事情とまるで反対した事が書いてある。例えばあのとき徳川氏の旗本家人で「朝臣」というになった人達を、何か非常に抜擢でもされた、栄典でも蒙ったように言ってある。その実、右は正反対で、あのとき朝臣になった者をば官軍の方でもあまり珍重せぬ、ましてその世間からは非常に妙な悪感情を持ちまして、――つまりは「開化」ぬという話でしょうが、魚屋八百屋でもその屋敷には物も売らぬというような有様もあったのです。そのまた当人も、その当時は人にも面会ず、偶々会えば赤面して、私どもも駿河へ御供もしたいですが、家内にこれこれの難義があるとか、親類にしかじかの苦情が出たとかで、まことに残念ながら、実に余儀なく……とか揉み手をして、あやまっていたくらいです。なかなか天朝の御直参になったからとて、威張り返って意気揚々の得々のどころの次第ではないのでした。
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』9ページ10行からの記述と比較してみてください》

266ページに次の引用がある。引用元が明記されていないが、前の「明治元年」と思われる。
階子の口まで行ってみると驚いた! 船中の混雑を防ぐためでもあろう、階子はとってある。わきの手すりに捉まって下方を見ると、臥棚もなければ何もない伽藍堂の板敷の上に、実に驚く、鮨を詰めたと謂おうか、目刺鰯を並べたと謂おうか、数限りも知れぬ人間の頭がずらりと列んで、誰も彼ももう寝ているのであるが、その枕としているのは何だというと他人の足で、自分の足もまた他の枕にされているのだ。
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』33ページ4行からの記述と比較してみてください》


268ページに次の引用がある。引用元が明記されていないが、前の「明治元年」と思われる。
非番の折りには、城内から一里半ほどの城が腰の海辺(今鉄道の通っている処)へ行って、青海苔を採って来て干して食う。或いは藤枝の山手の太閤平、盃松などの谷へ行っては蕨や犬薇などを摘んでは喰う。いやもう伯夷叔斉と嶋の俊寛を合併した景色でしたね。(中略)或る人の如きは真にその三食の資に尽きて、家内七人枕を並べて飢えて死に、また或る人は五日とか七日とか一粒の食をも得んで苦しんでいるのを、村の者が怪しんで、初めてその餓死にのぞんだと知り、或る者は逸早く麦粥を煮て食わせたところが、哀れむべしその男、ひもじいままに一度に数椀を尽くした、と看るうちに忽ち非常の苦悶を発してたちまちに息絶えたと聞きました。
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』37ページ後から5行からの記述、及び44ページ1行からの記述と比較してみてください》


278ページに次の引用がある。引用元が明記されていないが、前の「明治元年」と思われる。
多くは見て来たような虚構ばかりついて、会津や脱走が勝ったと書かねば売れぬというので、その記事には奥羽軍は連戦連勝、今にも江戸へ繰り込むような事のみ書いていた。現に最も失笑すべきは、九月の廿四日に会津は既に落城している。それを何雑誌か名は忘れたが、その前後の発行のものに、会兵既に日光を占領して宇都宮に及び、その先鋒は近日長駆して草加越ヶ谷まで来るという、既にその先触もあった、というような事が載せてあったのを見ましたな。
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』23ページ5行からの記述と比較してみてください》








野口武彦『幕末パノラマ館』(新人物往来社。平成12年4月10日)

107ページに渋柿園『三十五年前』からの引用がある。
芝で今戦争があつて、兵燹で人家が焼れてゐる抔とは夢にも知らぬ、長崎の葬礼を江戸で聞くと云ふやうな調子で、往来は絡繹、人は皆近づく春の経営に余念なしと云ふ景色を見て、私も其のん気さ加減には大に呆れた。
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』13ページ後から3行からの記述と比較してみてください》








小山文雄『明治の異才福地桜痴』(中公新書。昭和59年10月25日)

9ページに渋柿園『桜痴居士』からの引用がある。原文そのままではなく、
『司馬牛が憂へて曰く人は皆兄弟あれど我独り亡し』
『夏五月、鄭伯、段に鄢に克つ』
が出る桜痴のひとつ話を紹介したものである。
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』256ページの記述と比較してみてください》


99ページに渋柿園『桜痴居士』からの引用がある。
「僕は正直に言ふが、居士は決して学者ではない」「更に露骨に云へば、其の天稟・鬼才を利して、極めて器用な、無駄のない学問をされたと云ふので、又た其れ丈けに、此に一を聞けば直ちに其れを十に応用する技術、事物の暗示を捉へるに非常な妙を得て居られたのだ」(『太陽』18巻9号)
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』254ページ後から5行からの記述と比較してみてください》


108ページでは、渋柿園『桜痴居士』の文章を若干書き替えて紹介している。
「比喩というのはつまり蜜や麝香のようなものだ。苦い薬でもまずい丸薬でも、甘くした良い香りをつければ女子供でも喜んで呑む。それと同じで、文章の分かりにくいところや、趣旨を取り違えられては困る箇所には、そうした甘美や芳香の比喩を用いるというわけだ。それによって読み手にのみこませやすく、ははあなるほどと合点できるようにしてやる。これが比喩の効用だ。つまり鈍機の衆生を済度する方便だな」
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』265ページ後から2行からの記述と比較してみてください》


109・110ページでも、渋柿園『桜痴居士』の文章を書き替えて紹介している。
「柳北は言う。『文といい章といい、もともとそれあやである。つまりいろどりである。達意も結構だが、それのみでは殺風景となる。かりに衣服にしたところで、ただ寒暑を凌ぎさえすればよいというものではあるまい。福地先生は人も知る着道楽の方だが、当然そこでは美しさを求めておられるのであろう。文にまた妙味なり妙趣なりが求められるのも同じことではないかな』
桜痴はこれに真向から反駁する。『いや、そうした贅沢物にとらわれるから肝腎の意が達せられず、文が外道におちいってしまう。だいたい無中に有を生じるとか、虚中に楼閣を築くとかいうのはすべて漢学先生の世迷い言にすぎなないのです』
『居士のその筆法だと、例の『お仙泣かすな馬肥やせ』が第一等の名文となるが、まさかこの開化の御代にいまさら本多作左衛門先生の御出馬を仰ぐこともあるまいが――」
柳北が揶揄するように軽く言い放つのを、桜痴はさらにまともにうけて、「その通り、実に名文です。こうして今に伝わっているというのがなによりの証拠ではありませんか』
こうなれば柳北も負けてはおられず、『しかし文は天地の大経であり、章は宇宙の表明である。日月星辰ことごとく天にかかる文であり、山川草木これみな地にかかる章である。もし天地にして日月なく山川なしとしたら、はしたして天地と言いえようか』語気もしだいに荒くなる。
『それがすでにあやではないか』桜痴も負けてはいない。『新井白石をもって名文家とすることには、先生も御異存はありますまい。あの『藩翰譜』を御覧なさい。あれほどの内容をもって巻はわずかに十三、しかも事蹟の明瞭なことは一句の付け加える余地もありません。まさにこれ『辞達して已むのみ』です』」
《岩波文庫『幕末の江戸風俗』261ページの記述と比較してみてください》





注文はアマゾンからもできます。
アマゾンで新刊本を買うと、送料無料です。
(プライム会員でなくても)





2018年8月17日公開


菊池眞一

はじめに戻る